性と夜職と愛情飢餓と

性、夜職、ホスト通い、その他日常に転がる心理的な話題について、愛情飢餓、愛着障害、承認欲求の観点から心理士が切り込むブログです。

飲み物こぼしちゃった お皿割っちゃった

 

こんばんは、こんにちは、おはよう

明城 こう (@kouchan_u) | Twitter

です。


タイトルがやけに子供っぽい。
何故かというと、今日は子供時代の話をするからです。

ほんの幼いころ、まだ6歳になるかならないか。そんな頃のお話。

 

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少し前にこんなアンケートを取りました。
参加された方は思うところがあったかと思います。

参加しておらず、今このブログを読んだ人は、選んでみてください。

選びましたか?

 


よし、進みます。

お話するのは1番目の回答

「何やってるのよ!馬鹿じゃないの!?」
について。
三番目、四番目は次の機会に。

怒られる、行動を否定されることに「恐怖心」や「嫌悪感」を強く抱いている人がいると思います。
又は何かで失敗したときに、「自分はなんてダメな奴なんだ」と果てしなく落ち込んでしまう人達もいると思います。


大体は幼少期に「この怒られ方」をしたのが原因です。
この中での正しい叱り方は当然のごとく二番目の

「次からこぼさないようにきをつけようね」

ですね。
行動に対して指摘をし、その指摘のみで解決しているからです。

 

一方1番目の回答はどうでしょうか。
「何やってるの!」で行動を指摘し。
「馬鹿じゃないの!」で思想やアイデンティティまで否定しています。
つまり、噛み砕いて言えば「ジュースをこぼしたので人格否定をされた」

ということになります。

幼少期、頼れるものがいない子供たちにとって、親はいわば絶対的な「安全基地」とも呼べるものです。
その親が「人格を否定する」叱り方をすると、子どもは安心して「ここにいていいんだ」と思うことが出来なくなります。
大人になって上司から初めていわれるのとは話が別です。

 

そういった「安全な場所から突き放された経験」はショックな体験として頭の中に残ります。
無意識的に、この不快な状況を避けようと脳は活動を始めます。

 

例えば「怒られないように完璧を目指してみたり」

 

 

例えば「捨てられないように言いなりになってみたり」

 

 

例えば「見放されないように金品を貢いで必死に縋ってみたり」

 

思い当たる節、ありませんか?

幼少期の衝撃的な出来事は思考に強い影響を与えます。
そしてそれは、行動に影響を与え、環境に影響を及ぼします。


人を信じるより貢いだ方が楽だとか、

人を信じるより言いなりになっていた方が楽、だとか。

仕方のないことです。無意識がそう記憶しています。

 

もしひとを信じたい!こわいけど!

という気持ちが上回るなら、まずはその無意識の部分を優しく包んであげなければいけないわけです。


もう傷つかなくていいんだよ、という形で。
それが出来るのは、自分の中の母親的部分であったり、他者の母親的部分であったりします。

そして多くの場合、他者の母親的部分に触れた方が確実です。

裏切られるかも、また離れられるかも、当然付きまとうことでしょう。
充分に信頼している相手か、絶対に攻撃してこないことが解る相手にそれを任せれば
いずれ、いい結果は得られるかと思います。
無意識に根差した思考はなかなか変えられません。大丈夫大丈夫、と、繰り返し仕込んでいくことが、地道ながら近道だったりします。

自分がもし親になったり、部下を叱るときは、
子どもを傷つけないように、二番目の方法で叱ってあげてくださいね。


今回ははここまで。

明城 こうでした。

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カウンセラーに人の気持ちはやっぱりわからない

こんばんは、こんにちは、おはよう。
明城 こう【HfL専門心理士】 (@kouchan_u) | Twitter

です。

 

使い方が分かってきたので 文字の やら

リンク やらを挿入してどやどやとしています。
携帯覚えたてのおじいちゃんみたいになってる。


僕は人の気持ちがわかりません。

 

「えっ カウンセラーのくせにわかんないんですか」

言われます。くせにって言い方やめてください。

「カウンセラーって人の気持ち読めるんですよね」

 

読めません。エスパーじゃないです

「人の気持ちも分からないのにこんな仕事やってるんですか」

 

やめて!たたかないで!

というのは冗談で。
人の気持ちがわからないということをわかっていないと

そもそも成り立ちません。この仕事。

 

僕はあなたじゃないもの。

 

おんなじ感覚を「解る」ことが出来るのって
記憶も、食事も、会話も、今の今まで一つ違わず生きてきた自分のクローンしか
無理な話なんですよ。

それを安易に

「うんうん、きもちがわかるよ」

だとか

踏み込まないうちから

「つらかったんだね、もうひとりじゃないよ」

だとか。

 

お前は何が分かったんだと。

 

そもそも「つらい」という気持ち一つでも感じ方に差異があります。
今まで経験してきたことや、脳の構造、その日の体調によって

同じ「つらいこと」でも「そっかぁつらいねえ」程度の辛さだったり

「無理…生きていけない」といった辛さだったりするわけです。

おんなじ感覚は理解できません。無理。

 

なので、推測して、状況を思い描いき

「ああ、辛いなぁこれは、ストレスを受けやすい人だから余計に重い気持ちになるだろうなぁ」

ということを考えて、

ようやく「それは辛そうだね…」という言葉に繋がる。

 正確には、同じ情景を観ようとしているから、零れる。

 

わかれたらいいなぁとは本当に思う。
でも、分からないものは分からない。あくまでも第三者的な立場からの

共感しかできません。残念ながら。


いろんな人に悩みを話しながらも

「どうせあなたには分からない」みたいなことを思っている人は、たぶんここで引っかかっているのだと思います。

違和感感じるよね。

カウンセラーに対して「知ったような口をきくな!」と思うときがもしあるのであれば、そのカウンセラーには会い続けない方が良いです。

大事なことを理解していないのでいつか深く傷つく瞬間が来る確率が高い。

 

なので、明城こうは、というか、一般的なカウンセラーは

「わからないなりに努力して感覚を近づけます」。

そうすればあなたが見ている、映っている世界により似ているものを見ることが出来る。

エスパーではなくてごめんね。
超能力が使えない代わりに努力と誠意で補うので、大目に見てやってください。

…うわぁ胡散臭い。笑

 

今回はここまで。

明城こうでした。

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出会い厨とそのカモの皆さん

こんばんは、こんにちは。

今起きた方はおはようございます。


カウンセラー(出張ホスト)の明城こうです。

今日はこんなお話。

 

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チャットアプリで知り合った男性が
「話し方と言葉の使い方が良い感じ」

で抱かれてもいい気がしている。

思い当たる人いますか?
そんなに多くはないけれど、いると思います。
それか昔、もう通っている道だ、という人もいらっしゃるかもしれません。

 

気持ちとしては本当に「抱かれてもいいかもしれない」という気持ちがあるのだと思います。

言葉でもいい雰囲気を醸し出せて、話し方にも好感が持てる。
しかし。

 

多くの場合、こう思ってしまうのは「寂しいから」に他ならない。
相手が構ってくれそうだからですよね。

いくら何でも判断材料が少なすぎる。文章なんていくらでも人をだませます、って、ネットで文章書いて信頼を得ようとしてる僕が言ったら本末転倒なのだけれど…笑 

そこはおいておいて。

それ以外の要素、出てくる?

いい感じ、優しそう、それ以外の部分はしっかり見えているんだろうか…?


この子はお話をすると、自分に時間を割いてくれる人が好き、と言ってくれました。
ということは、時間さえかければ誰でも手が出せる

ということになります。無論、清潔感云々は当然クリアしているとして。



お察しの通り、このタイプの人はハッキリ言ってチョロイです。
構ってやって適当なタイミングで

「寂しいね、でも大丈夫だよ、僕がいるよ」

なんて言葉をかけると二言目には「ほんと?」
「うん、ほんとだよ もう大丈夫 一人じゃないよ」
「嬉しい…寂しかったよ…」
「すきだよ」

「あいたいな」


となります。そんな事あるの?と思うでしょ?あるんです。
少なくとも僕が「空虚感から」女の子を食い漁ってる時期は垢ぬけない顔してても、お金が無くてもこれだけで入れ食いでした。

このながれだけでオナホ完成。

そして場合によっては食事代も宿もつきます。
オナホです。

残念ながらオナホです

三食昼寝付きオナホ。


中身を特にみることもなく、寂しさにつけ込んで都合のいい性欲処理機として完成して終了。


でも私は出会わないから大丈夫だし

 

うん、大丈夫でしょうね。現段階では。

 

大前提として、チャットアプリや出会い系に登録している男、というのは基本エロ会話かセックス目的です。
そりゃあ真面目に出会いを探しているかもしれない。
しかし、身体の関係を抜きにした男が出会い系に登録する、なんて話はあまり聞いたことがないんですよ。
僕の周りで始めた人は全員が身体目当てかつ、あわよくば趣味が合うセフレ、そうでなければ都合のいいオナホを探しているのが現実。

 

仮にいたとしてもトキワのもりでピカチュウにであうとか
川でヒンバスが連れるだとか。おそらくそんな確率。

期待したい気持ちは汲みたいです。きっと縋るような思いもあるのだと思います。
けれど確率が低すぎる。それに賭けるのは現実的とは言えない。
利用される確率の方が圧倒的に高いので、損はしてほしくないんですよね。

 

話を戻しましょう。

セックスにありつくことが目的の男が、「出会わない」女に構い続けるメリットってありますかね。
彼らはオナホが欲しいんです。彼らは中身を見ていない。

そして彼女は構ってほしいんです。彼女に中身は見えていない。

見えていないのは見ていないのと一緒です。

 

両者とも実は同じことをしてるんですよ。お互い相手を見ていないのに自分の欲求だけはしっかり通そうとしてる。

 

類は友を呼びます。


相手のことよりも、自分は性欲処理がしたいし

相手のことよりも、自分は構ってほしい。

女性は蔑ろに扱われるべきではないですし

人の時間は無限ではありません。

 

厳しい話になりますが、

ヤリたいだけの男からすれば

話が長くて簡単にヤレない女に構い続けるメリットはないです。
フェードアウトしていきます。だって時間の無駄だもん。

人によってはそこで身体を許すことで一時的に寂しさを埋めたりします。

でも、お互い相手を見ていない者同士なので、感覚が埋まることはありません。どっちも「何かして欲しい人」なのだもの。

「何かして欲しい人」と「何かして欲しい人」が関わると、話がすれ違います。

 

「何かしてあげる人」と「何かして欲しい人」が関わると、見返りがない限り次第に「何かしてあげる人」は疲れてどこかに行ってしまいます。

 

「何かしてあげる人」と「何かしてあげる人」が関わると、それはそれは

良い関係が築けます。

 

でも、「何かをしてもらった」っとしっかり感じられた経験が積み重なっていないと

人に「何かをしてあげること」って難しいんですよね。
例外があるとすれば、明らかに自己肯定感が低いか、過去の体験をやり直しているか。


これはホスト通い辞めたいのにやめられない人に多かったりするんですが。

自己肯定感が低すぎる、自尊感情が低すぎるがゆえに「こんなことをしてもらう価値はない」「こんなにしてもらって申し訳ない」「出来ることで返さなきゃ」と半ば強迫的な返報心理に駆られたりします。

 

その話は、また後々。


文章の雰囲気は作れます。
この文章だって、書き方で全く違う文になる。

それで「いい印象だなぁ」「悪い印象だなぁ」

と評価が振れていくわけです。


素性がしっかりしていない人に寂しいというだけでついていかない。
「やさしそう」という感性、人を信じようとする姿勢は素晴らしいけれど
いくら何でもそれではチョロすぎます。

寂しさの衝動から、損をしないようにね。

 

今回はここまで。
カウンセラー(出張ホスト)の明城こうでした。
またお会いしましょう。

 

不信感とはなにか

おはよう、こんにちは、こんばんは。初めまして。

今日は日差しがひどい一日だった。日焼け止めそろそろ買わないとまずいね。

 

 

不信感。

不信感というのは文字通り「信じられないと思う気持ち、感覚」のことを指す。

人を信じられない。

信じたくても信じられない。
そんな人たち向け。

カウンセラーと不信感

 

カウンセラーにとってクライエントの信頼関係は切り離せないものだ。

クライエントから信頼を得られないことには、良好な関係性が築けない。
信頼が強い状態で一度会うのと、信頼が弱い状態で一度会うのでは、同じ一度でも会っている時間の質に大きな差が生じる。
濃く、有意義で、楽しい時間を過ごすためには信頼の形成が必須となる。

 


不信感が強い人は他人をよく観察している。

相手の「どの行動が」「どの発言が」自分を傷つける恐れがあるか察知しているからだ。

逆に言えば、それだけ相手の求めていることや相手の状態を「解ろうとしている」という状態である。

それ故、

不信感がある程度解消され、信頼感を獲得した暁には、この面がプラスに働く。体調を気遣ってくれたり、時間を気にしてくれたり。


ガードが堅い人がふたを開けてみると優しかった、というのはかなりこれに近いかもしれない。

そして、「他人にどう思われているか」を多くの人より強く意識している場合が多い。

不信感を解消できれば当然良好な関係を築ける。

先も述べた通り、信頼が強い状態で一度会うのと、信頼が弱い状態で一度会うのでは、同じ一度でも会っている時間の質に大きな差が生じる。

では、このプラスに転じれば素晴らしい気遣いとなる不信感にどのようにアプローチをかけていけばよいのだろう。そもそも不信感とは何なのだろう。

 

 

不信感とその種類

 

人とかかわったり、会話を重ねたりするうえで

「これはいやじゃないかな」、「嫌いにならないかな」

といった申し訳なさからくる感情だったり

「どうせ信じられない」、「早く○○と言え、騙してると言え」

といった攻撃的な感情が出てきたり

「信じられない自分が嫌だ」「裏切られるのが嫌だ」

といった否定的な感情が出てきたりする。

これが不信感。いわずもがなだろう。

 

不信感は大きく二つに分けられると思われる。

・「傷つくかもしれないことから身を守るため」の不信感。

・「自己嫌悪からくる」不信感。

この二つだ。

 

 

「傷つくかもしれないことから身を守るため」の不信感

 

過去に裏切られたり、暴力を振るわれたり、いじめられたり。そんなことがあったのですごく辛く苦しい想いをした。もう嫌な思いはしたくない…
そうか!最初から信じなければ裏切られることもないんだ!

というのがこのパターン。

誰も信じられない、というより、誰かを信じた後に嫌な思いをする可能性がある事が嫌、といった感じだろう。

もう嫌な想いをしたくない、という気持ちが強ければ強いほど、他人とは距離を取ろうとする。接触をしないのだから嫌な想いをすることもない。

 

しかし、距離を取った結果、今度は他人から分離した感覚が強まる。

嫌な想いをしたくないと他人と距離をとればとる程、世界から切り離されたような、寂しさや孤独感の中でふわふわと漂うこととなる。

その葛藤の中で「一人は楽だけど寂しい、だけど人を信じられない」といった言葉が生まれたりする。

 

守られているが、孤独。

伝わる人には伝わると思うが、MOTHER3で「絶対安全カプセル」に入り込んだポーキーのようなものだ。

 

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絶対安全カプセル」は、どこからもカプセルの中身に危害を加えることが出来ない。カプセル内部の安全が完全に保証される優れものである。

その代わりに外界に自分が干渉することが出来ず、外界もカプセルの中身が暴れだすなどの心配から守られ、危害を加えられないといった、双方の意味で「絶対安全」のものである。

極端に言ってしまえばこのような状態である。

(ゲーム上では開閉スイッチが外にしかついていないため出ることが出来ない…笑)

 

なので、解消をするとすれば、まずは通信機か何かを使ってカプセルの内部に優しく語りかけ、カプセルの外に右手一本でも出してもらうところからがスタートとなる。

果たして可能なのか、という話だが、分離感や不信感にさいなまれている人自身が

「人を信じたい」

「自分自身に優しくしたい」と思うことが出来れば、するりと解決したりする。

後は外の世界にそっと、時間をかけて出て来て貰えばよい。

 

 

「自己嫌悪からくる」不信感

 

過去に嫌な思い出があった、という訳でもないのになぜだか人が信じられない…

なんとなく。本当になんとなく。漠然となんだけどね…

というのがこのパターン。

自分に強いコンプレックスがあったり、失敗が多いなどのイメージが先行して、ひどい自己嫌悪や自尊感情の低下が起こると

「こんな人間は必要とされていない」

「ダメなところしかないので好きになってもらえるわけがない」

という発想に陥る。自己不信感を他人に投影した結果の不信感である。

どこかで嫌なことをされる自分が悪い、興味を持たれない自分が悪い

などといった想いを抱いている確率が高い。

 

解消を目指すのならば、まずは自尊感情を養うところからスタートである。生きているだけで尊重される、というのを大げさなくらいに染み込ませないと「存在価値が感じられない」ために延々と自己不信感を奥深く広げていく。

「自己嫌悪からくる不信感」は、自己不信感の他者への投影なので、他人がどうこうする、というよりも、ダメな自分を許してやるというプロセスが必要になる。

 

自分を許すというのは難しいものだ。

人は気づかないうちに、自分には許されないものや、自分は我慢しなければならないものを何故だか増やしていく。

それは恋であったり。

対話であったり。

趣味であったり。

仕事であったり。

学歴であったり。

体型であったり。

性格であったり。

好きなものは好きでいい。なりたいものはなりたいでいい。今あるものは持っているものが全てなのだから仕方がない。
そのように自分に許しを与えられたときに、このタイプは解消に向かうと思われる。

 

 

 

 

 

これで万事解決、この通りに行けば不信感から脱却できる!

と声をあげたいところだが。

他人を今まで信じられなかったことの弊害により、心の中に積もり積もっているものがある。

復讐心だ。

 

 

不信感と復讐心

今まで他人をうまく信じられなかった。他人を信じないことによって、他人からどのような目線を向けられただろかう。

「お前のことが信じられない」「あなたは信用できない」と声を大にして言われて、プラスの感情を持ってくれる人なんてそうそういないだろう。

 

当然不信感を持つものからすれば、精いっぱいの外部への接触である。

しかし、多くの場合は

「じゃあもういいよ」「あっそう」と放られてしまうか、「傷ついた」「悲しくなった」という反応が返ってくる。

 

僕も残念ながら悲しくなってしまうタイプの人間だ。

 

相手を信じられないことにより、自分の中の辛さは自分自身の中に溜まりに溜まり、行き場をなくす。

その行き場がなくなった感情が本人の意思を半分無視した形で「ひねくれた態度」であったり「攻撃語」へと転じ、相手に刺さるものとなるのだ。

そうして「傷ついた」「悲しい」という反応を得られた不信感を抱えた者は、復讐心を満たしてしまう。何かが解決したような気持になってしまうことがある。

 

だが、この復讐心は後に、罪悪感となり真綿のように首を絞めつける。

相手の復讐心をうまくいなし、ポジティブワードをかけ続けることが不信感解消のキーとなるだろう。

 

 

さいごに

長々と文字を連ねてきたが、不信感をもっているからダメだ、とか、復讐心があって他人を傷つけているからダメだ、とか、そういう説教がしたい訳ではない。

 

自分がなぜ不信感を持っているか、攻撃をしてしまうのか

をしっかり咀嚼し、誰かと一緒に対策を練っていくことが不信感解消につながる。

その誰かが一般の人でも、専門の人でも。受け止めてくれる人と一緒に。一人ですべて成し遂げようとしないことが大事だ。

しかしながら、一般の人は不信感を解消する過程で潰れてしまうことも多い。

できる限り専門者と一緒に行うことをお勧めする。

 

 

では、またの機会に。

マゾヒズムという進化と敗北

読者がもしいるのなら、おはよう、こんにちは、こんばんは。

書きたいことを一文にまとめたら、とっつきにくいタイトルになってしまった…
タイトル付けのセンスはないなぁ、と思う。
自分にとっては重要なことが多すぎる。
人によってはそれを取捨選択が出来ていない、と取るのだろう。
実際自分でもそう思う。書こうとしていることは同列の重要性を秘めている。
しかし、序列をつける必要性などもとより無いのかもしれない。
ブログの書き始めに断っているとおり、これは僕が書きたいことだけを書くブログだからだ。

書きながら思考の整理も兼ねている。読みにくくても文句は言わないで欲しい。

マゾヒズム

1886年に「性の心理学」でクラフト=エビングが概念として提唱した、性的倒錯のことを指す。オーストリアの作家、ザッヘル=「マゾ」ッホに由来してこう呼ばれることとなった。マゾヒズム的思考、嗜癖を持つ人の事をマゾヒストと呼ぶ。

マルキ・ド・サドはなじみのある名前だが、マゾッホに関してはなじみがない、というのは僕だけだろうか。

性の心理学については原著をあたっていないので偉そうに語る事は出来ないので、読んだら偉そうにに語らせて欲しい。笑


僕はマゾヒストを「進化した人類」と捉えている。進化の産物なのだから、偉大だ。
先天的にしろ、後天的にしろ、現実に対する抵抗力の一つを身に着けている。

 

マゾヒズム、マゾヒストは「心理的及び物理的に過酷な環境(環境からの暴力)に耐えうる」の進化の産物なのだ。
環境に適応しない生物が絶滅していくのと同じように、環境に適応するように生物が変遷していくのは当たり前のこと。

 

今のご時世、何かとストレスが顕在化してきている。

社会での重圧。学業。経済的問題。友人関係。親子関係。

出世のために蹴落とさねばならない。いい成績を残すために他者に勝つ。良い旦那を貰うために美を磨く。

勝つにしろ負けるにしろ、その時に突き付けられるのは、優れた他者という環境からの暴力そのものであるとも言い換えられる。

セックスにはある種の暴力性が付きまとう。
どちらかにほぼ確実に受け攻めの構図が発生するからだ。
セックスを通さない暴力は言わずもがな、見て取れる通りに力の押し付けである。

これらの環境で「辛い」とそのまま受け取るか「快感に変換もしくはノーダメージに変換できるか」という話だ。

頑張り屋さんや出世している人、能力が高い人こそマゾヒズムを有していると僕は思っている。
もちろん、マゾヒストだからと言って負けるということが総じて気持ちの良いコトではないのは確かだ。

 

よく言われるソフトSM、などというものは、セックスの中にある暴力性を快感として変換したそれである。

軽い手足首の緊縛。アイマスク。視姦。言葉責め。放置。首絞め。
これも軽い程度で 自由を奪われ、感覚を奪われ、羞恥に晒され、尊厳を奪われ、接触を奪われ、命を奪われる。

そんなことの現れに過ぎない。
ハードSMはどうだろうか。
鞭打ち。水責め。針責め。臨死調教。
全てがやりようによっては命にかかわる事である。しかし、それすらも快楽に変換できる、して欲しいと思う人もいる。

そしてそれを快楽に変換するということは、すなわちその瞬間、その行為において「負けることを容認している」ということに他ならない。そして、負けている状態に対して否定的な感情を抱いていないことも多い、ということである(快感はさほどなく悔しい思いをするのがとてもいい、という場合もある)。

 

人の数だけ性癖も、マゾヒズムもある。

痛いこと、苦しいこと、恥ずかしいこと、辛いことに耐えている自分が好きだったり。それ自体が快感だったり。乗り切った先の報酬が嬉しかったり。痛いという感覚だけが頼りだったり。好きだから捧げるという願望のそれだったり。

そして、それをして欲しい、と望む自己破壊的な側面。対照的に依存した側面。

 

テンプレート的なSMプレイはあれど、一つのSMは一つの関係でしか描くことが出来ない。

クライエントとのプレイも当然だ。
一言でこれをしてきましたといっても、その人と僕だけの流れが確実に存在するし、その真似、模倣はほかの人では出来ないし、仮に出来たとしてもしてほしくない。

 

「ストレスのはけ口としてのSM」

ということも、もっと浸透してもいいのかもしれない。

勿論、辛くなくてもSMという精神的な遊びの世界に踏み込むのは大いに結構。

素晴らしいことだ。

 

僕はマゾヒストを尊敬する。その敬意の上で、抗えない「力」となりたい。

 

こんなところか。では、また気が向いたら。

twitter @kouchan_u

仕事に思うこと。

最初の読者層は、Twitterから入ってきた人たちがほとんどだろうが、改めて書いておきたい。

誰か来るかもしれないし。

 

僕の仕事はセックスカウンセラーだ。

夫婦間のセックスレスを解消しようだとか、夫がEDに対しての対処をしようだとか、なぜセックスがカップルの間で減ってしまったのか、だとか

主としてそういうことに対するカウンセリングを行うわけではなく(依頼があれば話は別だけれど)

もっと直接的なものだ。

手法として「セックス」を使用することもある、と思ってもらえるとちょうど良い。

使用しないことも勿論ある。

普通にデートして帰る、などというレンタル彼氏、レンタルフレンド的な側面も強かったりする。

 

それはクライエントに対する冒涜だ、とか性的搾取だ、などという意見は山ほど聞く。

とても倫理的(あくまでも自己の範囲に限定したものでしかないが)な方なんだろうなぁと思うけれど、搾取に関しては第三者が突っ込むことではないと思う。

このあたりはよく創作で使われる、というか表現方法としてあるが、メリーバッドエンド好きな人なら共感ができると思うのだけれど、「その人が幸せなら周りからどう見えてもよい」ということにも近い。

 

メリーバッドエンドは自己の幸せを追求した結果なのだろう。

無論僕もそのようなスタンスをとっている以上、自己の幸せが一番大事だし、メリーバットエンド的なものにある種の「憧れ」を感じているし、それを一つの選択として尊重したいし、おそらく僕自身も尊重されたい。

 

 

「周りから見れば悪いようには見えるけど、その人にとっては良い」のだから、

つまらない口を「関係性に存在していない他者」が挟むのは野暮だ。

搾取がどうの、というのはこの仕事において最初から気にすることではない。

使いたい人が使い、そうでない人はそうでない。それで充分。

 

ただそれに肉体的接触が加わった瞬間、なぜだか「正義感を高く振りかざす」者達がいる。

そうした正義感が、その人の幸せにとって一体何を生むのだろう。

肉体的接触と精神的接触は何が違うのだろう…これもブログにかけるな、

などという事は置いておいて。

 

僕はこの仕事を冒涜だとは微塵にも思わない。

冒涜的な側面があるね、と認めてしまえばそれは、「僕は貴女をナメています」と今来てくれている人に表明している事にほかならないからだ。

 

しかし、クライエントが一定数来てくれないと、生活が成り立たないのも事実。安定しているとは言いづらい。

僕はクライエントに生かされている。

クライエントが来てくれるからこそ、僕は今この瞬間モスバーガーをもしゃもしゃと頬張りながら文章が打てるし、良く眠れ、支払いも済ませることが出来る。

家にも住むことが出来るし、米だって買えるし、新しい服だって買える。

クライエントが居なくなったらどうなるか。

もちろん自分で「他の方法で」お金を生み出すしかなくなる。

が、こういう生き方を選んだ以上、「正常な社会への復帰」(便宜的にこのような書き方をするが)は難しくなってきた。

今のクライエントがいなくなるのを恐れているし、生活が崩れることに恐怖もある。

生活に関してはクライエントに依存しきっている。生かされている。

その事実だけは忘れてはならない。

冒涜はせずとも、来る人に生かされている。

きっと来る人も、それを解っているのだと思う。

生かしてくれてありがとう。モスバーガーは旨いよ。

と、今ちょうどハンバーガーを食べ終わるなどしたところ。

 

デートでお金が発生することについては尚更そうだろう。

いろいろなところに連れていってもらって、大好きな爬虫類に触らせてもらったり、スロットを乗り打ちしたり、素敵なお酒を教えてもらったり、今までにないディズニーランドの回り方をおしえてもらったり。

それでお金が発生する。時間そのもの。生きていること、存在していることにお金を払ってもらっている感覚。

楽しい思いをしている。

大学の頃は良かったなぁ、だとか、高校生の頃は、子供の頃は、などと振り返っても間違いなく今が一番楽しい。

 

頭を使ったセックスに関しては比類ない価値を提供できると思う。同レベル、もしくはそれ以上の存在がぱっと頭に数人浮かんだとしても、それはきっと読者との間で共有できている人だろう。

 

しかし、デートにおいては正直相手からしたら「誰でもいいのかも」と思う。

お金を使わないでいられるなら、それが一番よいのだから。お金を使って得たデートの時間なんてかりそめなのかもしれない。

それでも僕を呼んでくれる理由は、などを探り始めると止まらなくなるのだけれど、

少なくとも今、こうしてハンバーガーを食べ終えることが出来たのは

クライエントが僕のセックスに身を委ねてくれたからであり、爬虫類に触れさせてくれたからであり、スロットをノリ打ちしてくれたからであり、バーにつれて行ってくれたからであり、ディズニーランドに呼んでくれたからであり、僕の時間に価値を見出してくれたから、そういうことでしかない。

 

そろそろ時間なので家に一度帰る。

思ったことをつらつら書くと、着地点がなくなるね。

 

では、また書きたくなった時に。