八重枕CADABRA

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心理アプローチの例① SMなし 死にたいから生きたいへ


つい先日、あるひとの状況が劇的に改善しました。
最初の心情から現在までの流れを文章にしてくれたので、ブログに掲載します。
辛い向き合いも多かったのに、よく頑張ったなあ、と心の底から思います。

人は勝手に助かる。そのことに留意して目を通してみてください。



 


こうさんを初めて見つけたのは2017年の夏、ツイッターで。

最初の印象は「なんかすごそうだけどちょっと胡散臭い…?」でした(ごめんなさい)

最初こそそういうイメージで、尚且つ俗に言う「裏垢」的な人なんだろうなー、と思っていたので性的な内容に食いついてリプのやり取りをしていました。

 

でも、こうさんのツイートを見ているうちに「あ、この人は違うな」と思った。そういうんじゃない、と。

 

 

 

彼の、心理的な、「本質的」な側面を見ていくうちに、やや警戒していたわたしの心情は解けていって。

わたしの抽象的な「寂しさ」ひとつを取っても、『「認知」が根付いているから時間がかかるよ」「安心してもいいってわかるまで、見てくれてる人がいるってわかるまで、「認知」が解るようになるのが目標だよ」ととても優しく諭してくれました。

 

当時のわたしは虚無感と孤独感のかたまりで、何をしても何をやっても誰といても満たされなかった。

からっぽのビンにビーズがひとつ入っているような、振ればカラカラと音がするような虚無感。

でもそれはみんなそうなんだと思っていた。わたしなんかが思うくらいだからきっとみんなそうなんだと。わたしだけじゃないんだから甘えんなと、ずっとそうやって生きてきたじゃないかと言い聞かせて生きていた。

 

あるとき、こうさんとリプのやりとりをしていたとき。

こうさんがわたしに「優しい」と言ってくれたけど、わたしはそれを「違う」と応えた。

「優しいとかじゃなくて怖がっているだけ。わたしなんかに時間を遣わせてごめんなさいって思う」と。

それに対してこうさんは、「そこで『違う』って言えるのは偉い」とまず褒めてくれた。

 

『なんでこの人否定しないの?なんで褒めてくれるの?わたしなんか時間を割くだけの価値なんてないのに』

そればかりがわたしの頭の中を駆け巡ったのと同時に、「褒められる」という行為に慣れていない自分を見つけた。

 

身の上話になってしまうけど、わたしは20数年間、物心ついたときからずっと「劣性遺伝」として育てられてきた。実の母親に言われた言葉だった。

それはわたしの中にずっとずっと残り続けて燻って、火が消えないまま奥底に腐ってこびりついて離れない呪いの言葉だった。

何をするにも「出来損ないだから」「劣性遺伝だから」「わたしなんて求められていない」「存在しているだけで迷惑」「生きているだけで恥」という思考でずっと生きてきた。

 

なのにこうさんは「自信というものは周りがいいこいいこして養われるけど、相対的なものではないしそれはもう無限にいいこいいこ案件」と言ってくれた。

こんな面倒な話を言ってるのに、逃げもせずに向き合ってくれた。

委ねてみよう、この人になら委ねられる、と思った。

 

それでもなかなか性分というものは変わらない。

母親への拒否反応も相変わらずあった。

時期を同じくしてわたしは実家を出た。これ以上母親と一緒にいたくなかったし、何より、もうわたしの所為であの人に迷惑をかけたくなかった。あの人にとってはわたしは「恥」でしかなかったから。「重荷」でしかなかったから。これ以上傷つきたくなかったし、あの人を傷つけたくなかった。

離れて暮らすようになってから、母親の態度が少し柔らかくなったり優しくなったりしたのに(今思えば親だから心配してくれるのは当然なのに)、わたしは「今更母親ヅラすんな」とずっと思って過ごした。わたしは貴方を親だと認めない、絶対に許さない、そう思って過ごした。

 

自己啓発系の書物や、会社の研修にすらも反吐が出た。

なにが『自尊感情を持ちましょう』だ。

なにが『あなたはこの世でたったひとり』だ。

そうやって『生きていく』責任で雁字搦めにして退路絶って、口だけなら誰でもいくらでも言えんだよ。

なにが自尊感情だ。そんなもん持ててたら今こんな風になってねえ。

 

そんな風に思う自分が世界で一番惨めで一番嫌いで、一番哀れで可哀想だった。

 

転機は、2018年2月。

東京に行く機会があって、こうさんとお会いした。

緊張と人見知りでガッチガチになってるわたしを柔らかく導いてくれた。寂しさや虚無感の原因、わたしの自己肯定感の欠如、コンプレックス、母親との関係。それら全てを撒き散らしても、受け入れてくれた。

わたし個人は小さいと思っていたことでも、こうさんはひとつひとつ褒めてくれた。

口癖は「生きててごめんなさい」なわたしをこうさんはちゃんとデコピンして諌めてくれました。

こうさんはずっと、「沼から抜け出す『手伝い』はできる。でも、沼から『出してやる』ことはできない」と言っていた。何故ならそれは、「抜け出すのは僕じゃないから」。手を貸してくれるのは確かにこうさん。でも抜け出すのはわたしであって、こうさんではない。差し伸べられた手を掴むも離すもわたし次第なのである。

如何に「自分を『赦して』あげられるか」。また、「乗り越える」というのは「損失を認める」ということ、とこうさんは言っていた。

例えば今まで、「母親に愛されてこなかった自分」を乗り越えることは、「今までは愛されてこなかったー、あー、損したー」と思えるかどうか。これからはいくらでも変えられる。

それを、お会いした直後は飲み込んだ気でいた。わかった気でいた。腹に落とせた、気でいた。

 

それはあくまで、「気でいた」だけだった。

良くも悪くも本質に触れた。それを認めるまで、心がその本質に拒否反応を示したようで、東京から帰ってきたあとわたしは酷く荒れた。

そりゃそうだ。仮想現実が現実と入り混じるとき、そのギャップに自分がついていけていないのはわかっていた。仮想現実で綺麗な自分を繕ってきたツケが、現実の醜悪な自分に降りかかってきて、それがどうしようもなくデカいブーメランになって自分に刺さって、結果的に「認めたくない自分」として自己嫌悪になった。

コンプレックスの塊が、大好きなこうさんの時間を奪ってしまったんだとどうしようもなく落ちた。大嫌いな自分が、こうさんに大嫌いな部分を見せてしまった。わたしという存在をこの世から全てなかったことにしていなくなりたい。お願い忘れて。ごめんなさい。

あの日の自分を、劣性遺伝だと言われたあの日の自分を救ってあげられたらきっと今こうなってないのに。でもタイムマシンなんてないしそんなの叶うはずがないから、今の自分があの日の自分を救ってあげるしかないのに。 許せないし赦せないんだ、頭で分かってるのに。

2月にこうさんに言われたことを全然腹に落とせていない自分がそこにいた。

 

助けてと伸ばした手の行方はただ空を掻くだけで、助けてって言ってるくせにどう助けてほしいのかわからないし、助けてって言ってるくせに頑固なわたしは助けられたあと自分がそれを受け入れられるかがわからなかった。実際こうさんが助けてくれたのに、受け入れられていなかったから反動が起きた。

わたしには「自分」がなかった。 だから自分の決断を信用できない。 そして結局自分が傷つきたくないからブレる。決めるのは自分しかいないのに。『自分の決断を信用できない』くせにクソ頑固。自分の世界がすべて正しいと思ってるクソ頑固。矛盾しまくってて笑えた。

「アドバイスを受ける」と「怒られる」と「嫌われる」の違いが分からなくて区別がつけられなくて、その全部が「見捨てられる」「拒絶」「否定」と同義になる系のメンヘラちゃんなのでただ生きてるだけでしんどくなっていた。

 

荒れに荒れて、生まれて初めて本気で「死にたい」と思った。消えたいとかじゃなくて、明確に「死にたい」と思った。

そのとき、姉と姪とビデオ通話する機会があった。姪はまだ1歳で発語はできないけど、画面の向こうで笑う姪に涙が出た。「この子の成長を見ていたい」「死にたくない」「生きたい」と思えた。

同時にこうさんが言っていた、「『変化』とは『変わりたい』という欲求からくるもの」という言葉を思い出した。「死にたい」と思っていた自分が「生きたい」と思えたのは間違いなく変化で、純粋な欲求だ。

これがこうさんの言っていた欲か。そう思ったら今まで閊えていたものが嘘のように腑に落ちた。

 

生きたい。生きたい。生きたい。死にたくない。変わりたい。

 

今まで生きてきてずっとずっと精神面で不変だったわたしに、きっと生まれて初めて変化が起きた。

そして2月にこうさんが言ってくれたことも、このとき本当にようやく意味が解った。

わたしが「変わりたい」と思わない限り何も変わらない。だってわたしの人生を生きるのはわたしだ。こうさんじゃない。そう思ったら、あぁわたし強い、ちゃんと自分で上がってこれるじゃん、と思えた。そしたらそれまで荒れていたのが笑えるほど楽になった。

 

今まで助けてって縋るだけだったけど、こうさんが言っていた「僕は手伝うことはできる」「みんな勝手に助かるだけ」という意味がようやく解った。自分の中に落とし込めた。

わたしはわたしのやり方で幸せになれる。手伝ってくれたのはこうさんだけど、変わったのは自分で、自分が勝手に助かったんだ。こうさんが伸ばしてくれた手を掴んで、沼から出る意思を持ったのは自分だ。

 

「誰も助けてくれない」と思っていたのは、わたしがわたしを助けようとしてなかったんだ。

「誰かに助けてもらいたい」のは、周りを『頼る』んじゃなくて『当てにしている』ことを色よく言っていただけだった。

考えてみれば至極当然だ。だって「誰か助けて」と言って助けてくれた「誰か」が道を決めてくれるなら楽だから。周りに泣きついてその道が例え行き止まりだったとしても、それは周りのせいにできるから。

 

その考えに行き着いたら、なんで今までわたしは自分の人生なのに人に決めさせてきたんだろうと思ってすごく損した気がした。そしてこれが前述した、「乗り越える=損失を認める」ことに繋がった。

 

同時に、母親のことについても考えた。

「劣性遺伝」という言葉は確かに根深い。悔しい。でもそれを決めるのは本当に母親なのか?違う。わたしの人生はわたしのものだ。母のものではない。まして(言い方は悪いが)わたしが劣性遺伝なら両親の遺伝子もたかが知れている。笑

20数年間もなぜ気付けなかったのか。とても勿体ないことをしたけど、勿体ないと思えることも自分の中で進歩だった。

過去の、小さい頃意味も解らず「劣性遺伝」と言われてきた自分ごと赦せた瞬間だった。呪いを断ち切った瞬間だった。

それまでお母さんに何を言われても、嫌味や皮肉としか受け取れなかった言葉も素直に腹に落とせた。小さいことを「ありがとう」と言えるようになった。

「自分」と「お母さん」への認知。それが確立できた感覚。

ちゃんと「母」として認識できて、且つ自分もお母さんの娘だと認めることができた。過去の自分ごと、お母さんを赦せた。わたしがあの人を認めて、昔のわたしも認めることができたから起こりえた。

だから今は純粋に、これからちゃんと母娘として関わっていけるのがとても嬉しくて幸せ。少し前の自分からは考えられないほど関係は良好で、親孝行しようと思えている。(まだまだたまにケンカもするけど)

こう思えるのも個人的に驚くほどの成長。

 

わたしの場合はすべての根底にあったのがお母さんという存在だったから、それがクリアになった今はとても生きやすい。生きていて楽しい。

生きやすくなるきっかけをくれたこうさんには感謝してもしきれない。

「手伝ってくれて」本当にありがとうございます、わたし今とても幸せです。